あれは、6月の終わりごろ。
まだ梅雨の名残で空気が湿っていて、工場の床もうっすらと汗をかいていた。
僕はその日、出勤してすぐに違和感を覚えた。
どこからか、油の匂いが漂っていた。機械油じゃなくて、もっと重たくて、甘いような、独特のにおい。
「まさか」と思って足を早めた先で、僕の目に飛び込んできたのは、
1号機の足元でゆっくりと広がっていく、茶色く濁った油のシミだった。
熱媒体油だ。
熱板のどこかに亀裂が入ったのだろう。
僕はこの会社に入って、7年目になる。
工業大学を出てすぐ、今の営業技術部に配属された。
職種としては“営業”だけど、正直、現場にいる時間の方が多い。
というのも、ウレタン加工って、図面だけじゃ分からないことばかりだからだ。
愛知県みよし市。大手自動車メーカーのすぐ近く。
昔からの取引で、大手ウレタン加工会社の二次下請けを続けてきたこの工場も、
ここ数年で求められることが大きく変わってきた。
納期は短く、品種は多く、品質基準もずっと厳しくなっている。
でも、設備は変わっていない。
うちの主力はホットプレス3台。そのうち2台は20年以上前のもので、
そしてこの1号機は、僕が生まれる前から稼働しているという。
もうメーカーも廃業していて、図面も部品もない。
それでも、朝になると決まってこの場所で、うなるような音とともに立ち上がる——そんな存在だった。
サービス業者がやってきて、点検を終えたあと、
「熱板にクラックが入ってますね。内部からの漏れです」と、絞るような声で報告していた。
それを、すぐそばで聞いていた古賀さんは、何も言わなかった。
ただ、少しだけ視線を落として、油の染みをじっと見つめていた。
古賀さんは、創業時からこの工場にいる。
僕がこの会社に入って、最初に担当したのも1号機だった。
当時は“あの古賀さんの担当になる”ってだけで、正直ビビっていた。
でも実際は、怒鳴られることは一度もなかった。
間違えても黙って見ていて、うまくいった時だけ、小さくうなずいてくれた。
そのうち僕は、機械の癖よりも、古賀さんの表情を見て不具合に気づけるようになった。
それぐらい、この1号機と古賀さんは、いつも一体だった。
その日の午後、緊急の会議が開かれた。
上層部から出た結論は「ホットプレスとしての使用は中止。今後は必要時のみ、コールドで使う」というものだった。
誰もがうすうす感じていた決断だった。
あまりにも古く、部品の調達も難しい。致し方ない。
でも、心のどこかで「それだけじゃないだろう」とも思った。
会議の帰り道、僕は1号機の前を通った。
古賀さんが一人、雑巾で床を拭いていた。
染み出した油を何度も、何度も拭き取っていた。
その手が、ゆっくりと、でもどこか名残惜しそうに熱板に触れていたのを、
僕は今でもはっきりと覚えている。
あの時、僕は何も言えなかった。
ただ、胸のどこかが締めつけられていた。
いつもと同じ工場、同じライン。だけど、何かが確実に変わろうとしていた。
そして、この“変化”が、これから始まる長い物語の序章だった。
……そのときの僕は、まだ知らなかった。
もくじ
【第1話 解説】—— 止まったラインの向こうにあるもの
〜あなたの現場でも、同じような“静かな限界”が始まっていませんか?〜
今回のストーリーでは、創業時から使われているホットプレス機の故障をきっかけに、現場に走る不安と上層部の現実逃避的な判断を描きました。
これは決して、フィクションだけの話ではありません。
日本各地の工場で、同じような「静かな崩壊」が起きています。
🔸よくある現場の構図と課題
● 老朽化したホットプレスが、いつ止まるか分からない
1970〜1990年代に新設されたホットプレスは、今や稼働から30〜50年近くが経過。
メーカーが廃業していたり、熱板・油圧ユニット・制御盤などの交換パーツが入手困難になっているケースが増えています。
● 生産要求は上がる一方
品質基準は年々厳しく、さらに短納期・小ロット・多品種対応が求められる現在。
ところが、機械は昔のまま。「設備に無理をさせている状態」が常態化してしまっています。
● 現場は不安、でも声に出せない
「そろそろヤバいんじゃないか」と作業員は感じていても、
上層部は「壊れてから考えればいい」「前もなんとかなった」と、先送りを続けがちです。
内部には“どうにかして欲しい”という空気が充満しています。
● 象徴的な事例が「コールド化による延命」
熱源や油圧ユニットに不具合が出ると、「もう加熱せず、圧力だけで使おう」という判断が下されがちです。
一時しのぎにはなりますが、それでは製品品質や工程スピードに影響が出るのは時間の問題です。
✔ ZeroPressとして伝えたいこと
1号機の故障と、それに対する現場の空気は、どの工場にも潜む“構造的な課題”です。
ZeroPressはこの問題を、単に「機械の更新」ではなく、技術・現場・経営の信頼関係を再構築する機会と捉えています。
再生とは、機械の修理ではなく、
「あの時、どうして声を出せなかったのか」「誰が何を望んでいたのか」をもう一度見つめ直す作業なのです。
▶次回予告
「実は2年前にも、設備更新のチャンスがあった」
そう村井が振り返る“補助金プレス”の記憶。
あれは、現場の信頼が壊れた日だった。